平成の怪物と言われた松坂大輔投手が、福岡ソフトバンクを戦力外通告を受けて退団するというニュースを見ました。まだ、現役を続行したいという希望からです。
来季、契約する球団があるのか注目されています。
松坂大輔投手といえばやはり今から約20年前の1998年に高校野球で大活躍をされてから、松坂世代と言われるくらい野球界を引っ張ってきました。特に高校3年生の夏の大会は今でも覚えているくらい印象的でした。
決勝でのノーヒット・ノーランは今でも語り告げられますが、私的には準決勝の試合が物凄い印象的でした。
そして甲子園でバッテリーを組んでいたキャッチャーは誰なのか?有名芸能人のあの方なのか?
そして松坂大輔投手の全盛期の能力はどうだったのか?
今回はそのあたりを探ってみたいと思います。
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松坂大輔の甲子園準決勝の試合が凄い
松坂大輔が1998年第80回夏の高校野球甲子園大会の決勝で対京都成章高校で9回・ノーヒットノーランで59年ぶりに優勝した試合もちろん素晴らしいのですが、当時見ていた私にとっては決勝に進むために戦った対高知県・明徳義塾戦の準決勝の試合がとても奇跡的で、印象深かったので、ここでは敢えてその試合を振り返りたいと思います。
実はこの明徳義塾戦で松坂大輔投手は先発をしていません。レフトのポジションでスタメン出場しています。なぜなら前日の準々決勝で対大阪・PL学園高校と延長17回まで戦い、250球を松坂大輔投手が一人で投げ切ったからです。
この試合も球史に残る試合でしたが、松坂投手率いる横浜高校が9対7でPL学園を下したのでした。
明徳義塾戦では横浜高校のナインに前日の疲れからか覇気がありません。7回が終了した時点で0対6で負けていました。残すところ8回、9回の攻撃のみです。
さすがに当時横浜高校を率いていた名将・渡辺元智監督も負けを覚悟したのか、この時に横浜高校ナインに対して「残りの2イニングでひっくり返すのは難しい。もう後はお前たちの好きな様に、思いっきり甲子園を楽しんでみろ!」と告げていた。
この言葉に横浜ナインはリラックスしたのか、あるいは負けたくないという気持ちが強くなったのか、8回裏の攻撃で相手チームのミスに乗じて4点を取ったのでした。
あと2点差と言うところまで来ると、もしかして勝てるかもという事で、9回表の明徳義塾の攻撃になんと松坂大輔投手が投げたのです。
これには球場で試合を観ていた人の多くが、横浜高校を応援することになりました。球場の空気が一変しました。TVで見ていた私も興奮して、松坂投手を・横浜高校を応援していました。
そして、9回裏の横浜高校の攻撃です。もう明徳義塾の選手は見るからに緊張して、動揺してしまっていました。結果は7対6で横浜高校のサヨナラ勝ちでした。
明徳義塾の選手は全員、グランドにうずくまってしまいました。そりゃそうですよね。誰がこの結末を予想できたか。奇跡が起きたのですから。この準決勝の試合は凄い試合でした。
そして、準々決勝のPL学園戦、準決勝の明徳義塾戦、決勝の京都成章戦、どの試合も今から考えると凄い、奇跡的な試合だったと思います。
松坂大輔投手は3年生のこの年、春の甲子園大会、そして奇跡的な夏の甲子園大会、神宮大会、国体となんと高校野球の4大大会すべてを制してしまうのです。
これが平成の怪物と称された始まりの一つなのです。
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キャッチャーはあの有名人で、全盛期の能力は
松坂大輔との甲子園でのキャッチャーは?
松坂大輔投手が甲子園で投げたのは3年生の時で、その時の正捕手は小山良男さんでした。
横浜高校に入学して最初にバッテリーを組んでいたのは、あの芸能人で有名な上地雄輔さんです。上地さんは松坂大輔投手の1つ先輩にあたります。
上地雄輔さんは中学時代には全日本メンバーに選ばれるくらいの実力者でありましたが、高校に入って2年生の時に怪我に泣かされてしまい、大活躍は出来ず、プロの道は諦めて芸能界に進んだようです。
しかし、芸能界のなかでは横浜高校で野球をやっていた。しかも松坂大輔投手とバッテリーを組んでいたというだけで、話のネタにはなりますね。
松坂大輔投手の全盛期の能力は
先ほども述べましたが、3年生の時の高校野球での活躍は「平成の怪物」と言われるような素晴らしい活躍でした。
そして高校卒業後はプロ野球の道に進み、西武ライオンズに入団します。
1999年開幕からベンチ入りし、プロ初先発となった4月7日対日ハム戦では155km/hの速球を披露し、8回2失点の好投でプロ初勝利を挙げる。この試合で印象的だったのが、日ハムの主力バッターで現・阪神タイガースの打撃コーチの片岡篤史を空振り三振に抑えた場面である。
そして次にあげる印象的な場面はあの世界のイチローとの対戦である。3打席連続三振という結果で、イチローを「本当に高卒ルーキー?」と言わしめたのです。
この年は16勝を挙げて、最多勝を獲得、堀内恒夫以来33年ぶりとなる高校卒の新人王も獲得しました。
2年目の2000年、3年目の2001年と3年連続最多勝を獲得します。そして2001年には投手として名誉ある沢村賞も獲得しました。
その後,2002年は肘の怪我で6勝どまりになりますが、その年以外の2006年まではNPLでは毎年二桁以上の勝ち星を上げています。
そして2007年から2014年までメジャーリーグで活躍します。特に最初の2年間(2007年・2008年)、レッドソックスで15勝、18勝を挙げます。
松坂大輔投手の全盛期といえるのは高校3年生から2008年までが全盛期といえるのかもしれません。
参考記事 ↓
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まとめ
- 松坂投手が3年生の時の高校野球甲子園・夏の大会の準決勝・対明徳義塾戦での逆転サヨナラ勝ちが私的には一番印象に残っています。もちろん決勝の京都成章戦でのノーヒット・ノーランでの勝利、準々決勝の対PL学園での延長17回を制した試合もですが。
- 甲子園でのキャッチャーは小山良男さんとバッテリーを組んでいます。芸能人で有名な上地雄輔さんとは横浜高校入学時にバッテリーを組んでいます。
- 松坂大輔投手の全盛期といえるのは高校3年生からNPL・西武球団時代、メジャーリーグでのレッドソックスでの最初の2年間ではないでしょうか。
来期は松坂大輔投手はどうなるのでしょうか?
出来ればもう一度甲子園で活躍する姿が見たいので、阪神ファンの私としては阪神がオファーしてくれると嬉しいなと思いますし、元々プロ入団時は横浜ベイスターズが希望球団だったので、その球団でもいいかなと勝手に思います。
まあ、どの球団でももう一度NPLで見たいものです。
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