サッカー「カズ」こと三浦知良選手が2月26日で50歳になりました。(1967年、静岡県生まれ)くしくもJ2開幕戦の日です。今年でプロ32年目、横浜FCでは13年目を迎えます。もちろんフォワードとして点が取れる戦力として期待されます。
50歳まで現役を続けること自体もう伝説です。ここまで続いてきた努力、そしてある時に(2008年)寄付をしています。その伝説に非常に感動せざるを得ません。
また、これまでにもたくさんの苦しい思い・挫折も経験してきました。そんな時も決して人のせいにしないカズの名言にも頭が下がります。改めて脱帽します。そんなお話をしたいと思います。
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伝説となるブラジル時代
小学校からサッカーを始めます。小4の時に両親が離婚、母子家庭となります。高校1年生の時に中退をして、ブラジルにプロになるために単身で渡航しました。
当時は身長が低く、テクニックはあるものの、他に一流と呼べるような特徴はなく、サッカー指導者は皆ブラジルでプロサッカー選手になるのは、無理と思っていました。当時の担任の先生からは反対されています。
しかし、自分の意思を貫き単身でブラジルに渡ります。その後、道のりは険しく、あきらめかけて日本に帰国することを一時検討しましたが、思いとどまり練習に明け暮れました。
裸足で子供たちが公園でボロボロになった汚いボールを楽しそうに蹴っているのを見て、「自分は何しにブラジルに来たんだ。このままでは帰れない」と思いとどまりました。
寄付
その時の記憶が強いのか2008年にカズはブラジルの孤児院にサッカーボール200個を寄付しています。なんと200個すべてに「夢をあきらめるな カズ」とポルトガル語で直筆で書いています。
子供たちは「カズ」というメーカーのサッカーボールと思い込んでいましたので、後に「ア○ィダス」のボールを別からもらった時に「カズ」のメーカーのボールが蹴りやすかった。と言っています。感動する伝説の秘話の一つです。
やがて、少しづつ活躍ができ、1986年(カズ19歳の時)名門クラブ・サントスFCと自身初のプロ契約を結びます。
その後他のクラブに移籍します。1990年再びサントスFCに戻り、レギュラーの地位を確保します。まず、ここまででも、カズってすごい人だというのが分かります。普通の人がたどれない人生です。
その後かねてから公言していた、「ブラジルで活躍して日本に戻る」を1990年から実行しました。目的は日本代表を「W杯に連れていくために」日本で活躍するプレーをするためです。
カズのクラブチームでの伝説・努力・活躍
そして1993年Jリーグがスタート、所属のベルディ―川崎の優勝に大きく貢献し、初代MVPに選ばれます。表彰式では真っ赤なスーツで登場して、周囲を驚かせました。
当時この模様をTVで見ていた私の印象は「まあ、なんて派手できざなやつ」という印象で正直あまり好きではありませんでした。あとで「なぜ、このような真っ赤なスーツを着るのか」知ることになりますが・・・。
1994年にはイタリア・セリエAの「ジェノアCFC」に1年の期限付き契約をし、アジア人初のセリエAプレーヤーとなります。1995年には日本に帰国し、1996年にはJリーグ得点王となります。
1998年からクロアチアでプレー、この時の経験が大きかったようです。1999年、日本に戻り、京都パープルサンガに移籍。監督は元日本代表の加茂周が務めていました。
翌年の2000年にはJリーグ通算100得点をあげます。2001年からビッセル神戸に移籍し、4年間キャプテンを務めます。2005年から横浜FCに移籍。そして2017年には13年目に突入し、今年も横浜FCで現役続行です。
このように数々の努力を積み重ねて活躍した伝説があります。
栄光と挫折の伝説
カズは日本代表には1990年から選ばれており、大活躍します。
1993年FIFAワールドカップ・アメリカ大会予選で、日本サッカーが40年間勝てなかった韓国にこの予選で初めて勝ちました。決勝ゴールを挙げたのはカズです。この時は各国新聞にも取り上げられカズは英雄でした。まさに栄光の中にいました。
しかし、予選最終戦のイラク戦でロスタイムに同点にされ、本大会出場を逃します。いわゆる「ドーハの悲劇」。この試合私はTVで見ていて、まさかという気持ちになりました。ラモス瑠偉がグラウンドに、終わった瞬間座り込んでしまったのを今でも記憶しています。
1998年FIFAワールドカップ・フランス大会の本大会出場が決まっていた日本。本大会のための直前のスイス合宿から、選考に漏れた3人が帰国しました。なんとその中のひとりがカズだったのです。誰もが驚き、マスコミは大きく報じました。その時のカズの金髪ヘアーが印象的でした。
しかし、監督批判など一切せず、選ばれなかったのは自分の実力不足とその後もひたすら練習に励みます。普通うまくいかなかった時どうしても「人のせいにしたくなります。」しかし、カズは「ドーハ」の時も「フランス大会」も一切口にしていません。
その後、1999年から2000年にかけてトルシエ監督から日本代表に招集されましたが、その後は招集されることはありませんでした。
2002年には代表スタッフとしてトルシエ監督から日本代表入りを要望されますが、カズはあくまでも選手としての出場を目指していましたので、実現しませんでした。ここでもカズは凡人ではありません。
あれほどW杯の出場を望んでいて、今後出られる可能性がかなり低くなっていくのが分かっていながら、スタッフとして帯同しなかったのです。男の意地、いや信念というか、軽々しくない、武士のような生き様であります。この時、私が以前「真っ赤なスーツを着た、派手なやつ」という印象が全く変わったのであります。
そしてなぜあのような派手な格好をしたのか、「プロは目立ち、子供たちの憧れにならなければならない。子供たちに夢を持ち続けてほしいと願うからです。」
日本をワールドカップに連れて行く、カズ自身はは行くことができませんでしたが、カズの存在・活躍は約束を十分果たせたといえると思います。これもまた伝説です。
現役にこだわるわけ
なぜ、カズはこれまでも現役にこだわるのか?普通、他のスポーツの一流アスリートたちは、もちろん衰えを感じて辞めるのが普通です。ほとんどの選手は衰えを感じ始めて、最後に花を飾って辞めるものです。
例えば昨年、広島でリーグ優勝して引退した野球の黒田投手。それはそれで感動して皆が引退を惜しみました。そのような辞め方が美しいとされます。
ところがカズは、本当にもう動けなくなるまで続けるのではないでしょうか?もしかしたら、1998年にワールドカップ・フランス大会に途中スイスから呼び戻されたことがよほど悔しくて、マジで出るまで頑張る、続けると思っているのかもしれません。
カズは尋常な人ではないので、それがエネルギーになっているのかもしれません・・・。もし、1998年フランス本大会に出場していたら、もう現役引退していたかもしれません・・・。そういう意味では元岡田監督のおかげかもしれません?・・・(笑)
カズの名言
人生は良いことばかりじゃない。良い時も悪い時も頑張ろうと、自分自身に負けないように言い聞かせてきました。ワールドカップに出られなかったことはその後のバネになったけど、今となってはJ2の横浜で試合に出られないのも一緒。どちらも悔しい。
結果が出なくても人のせいにしない。結果はすべて自分自身に原因がある。ずっとそう思い続けてきました。
このような名言を口にしています。
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まとめ
- 伝説となるブラジル時代:あきらめずにサントスFCとプロ契約を結ぶ。後にサッカーボール200個を寄付した時の話は伝説となる。
- その後日本を初め、各国での活躍も伝説となります。
- 「ドーハの悲劇」「ワールドカップ本大会出場落選」の時にも人のせいには一切口に出していません。
- 日本をワールドカップに連れて行く。この約束はカズの存在・活躍が大きな役割を果たしています。
- 現役にこだわれるのは今でも試合に出れない悔しさがあるからです。
- 悪い結果でも人のせいにしない。自分自身にあるという名言に脱帽します。
とにかくカズは私が初めて知った「真っ赤なスーツを着た派手なやつ」とは全然かけ離れた素晴らしい男、ナイスガイです。「キング・カズ」と呼ばれるにふさわしいと思います。
いくつまで現役を続けるのでしょう。でも、いずれは引退し、サッカー指導者になるのでしょうか?もうすでに指導者の役割は十分しているけど・・・。身をもって教えている指導者だから・・・
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