忌野清志郎のデイドリームビリバーを聞いた事はあるでしょう。CMでけっこう流れてきますね。
元々あの曲はアメリカのロックバンド・モンキーズというグループが作った曲なんですよ。
それを忌野清志郎が彼独特の歌詞にして日本人風にアレンジしたんですよ。そこにはどんな物語があったんでしょう。
今は亡き忌野清志郎とデイドリームビリバーの歌詞と意味を紐解いてみましょう、では早速行ってみましょう。
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Contents
デイドリームビリバーの歌詞を紹介
もう今は 彼女は どこにもいない
朝早く 目覚ましがなっても
そういつも彼女とくらしてきたよ
けんかしたり 仲直りしたり
ずっと夢をみて安心してた
僕はデイドリームビリバーそんで彼女はクイーン
でもそれは、遠い遠い思い出
日が暮れてテーブルに座っても
あー 今彼女写真の中で
やさしい目で僕に微笑む
ずっと夢を見て
幸せだったな、僕は デイドリームビリバーそんで彼女はクイーン
ずっと夢をみて安心してた
僕はデイドリームビリバーそんで彼女はクイーン
繰り返し
ずっと夢みさせてくれてありがとう
僕はデイドリームビリバーそんで彼女はクイーン作詞:ジョン スチュアート ゼリー 日本語訳 忌野清志郎
忌野清志郎が外国の歌を歌う時、彼は独自の歌詞に変えるので、日本人の心に打つ歌詞となるんです。
もともと忌野清志郎はRCサクセションというバンドを組んだんですが、その後タイマーズというバンドのボーカルとしてうたっていました。
RCサクセション ↓
この曲は、彼が実の母の事を思って歌ってるのだと言われています。
3歳で実母をなくし、伯母に育てられた清志郎が今はもういない実母の事を思って、せつない心を歌詞に託しているんです。
母はもうどこにもいないのさ、朝目覚ましがなってもね、僕は白日夢をみてるんだよ、そんでもってここでは母は僕のクイーンなんだと清志郎は声高らかに歌い上げるのです。
忌野清志郎と母親(継母を含む)物語
実母は忌野清志郎が3歳の時に33歳の若さでなくなったのです。その後、伯母夫婦に養子として引き取られたんです。
実のお母さんはかなりお洒落な人だったようです。歌が好きで明るくて、、清志郎はそんな実母の血を受け継いだのかもしれませんね。
お母さんの遺品の中には短歌が入ってたようです。
戦争にいった夫の帰りを待ちわび、結局死を知らされて亡くなっていった。
それを知ってか清志郎には反戦や平和への思いが強くあり、清志郎が中学から作ったグループからも、特にタイマーズになってからは一層、社会を風刺した挑戦的ともとれる歌詞を書いています。
私は個人的にはタイマーズの曲の方が好きなんです。
ヘルメットにタオルという学生運動の様ないでたちで、タイマーズとしてある音楽番組に出た時など、リハーサルと歌詞を全く差し替えて歌って、司会の古館を焦らせたというエピソードもあるんです。
清志郎の継母は中学校からバンドを組んで、学校の授業にも出なかったりしていた清志郎を心配して、新聞の投稿の人生相談にのせたりしています。
ぶらぶらしてギターのプロになるとかいってるけど、だいじょうぶでしょうか?という内容です。
このころ清志郎は「ぼくの好きな先生」という曲を作っています。美術の先生の事を書いた歌です。
こんな感じです。
継母も本当に清志郎の事を心配していました。
そして継母がなくなった時、両親が実の両親でないと知らされたんです。
その後、親戚のおばさんから、実のお母さんが残した写真、文章、アルバム、レコードが清志郎の手元に届けられたんです。
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忌野清志郎のことについて
細い体にマイクを握りしめて、全身で歌ってる忌野清志郎を知ったのはいつの事だったろうか?
彼は間寛平さんとも親交があり、自転車にも乗っていたんですよ。
ステージでは「のってるかい?」とか言いながらド派手な化粧や髪の毛の色で、所狭しと動き回り、手づくりの紙吹雪を巻きながら「雨上がりの夜空に」「スローバラード」「トランジスターラジオ」を歌いまくっています。
時には矢野顕子とデュエットして観客を楽しませました。
陽水は初め清志郎の前座で歌っていて、ある時など陽水のコンサートにほら貝を持って行き、進行に戸惑っている陽水をしり目に、観客に向かって「イエーっていえー」と座を盛り上げ「相変わらずだね、井上君」と爆笑させてたっけ。
「RC」の後は「タイマーズ」といったグループを作り、ヘルメットにタオルで顔を隠す危ないかっこうで、過激な反戦歌的な歌を歌ったりと社会に「いま、これでいいのかい?!と問題をなげかけて、本音で語るロックの大好きな人でした。
素顔の彼はシャイで、口数も少なく、どこか飄々(ひょうひょう)とした面持ちの静かな人だったんですよ。
芸術という物はすばらしいもので、その人がいなくなっても作品は残ります。
忌野清志郎は本当に偉大なロックンローラーでした。
反骨精神をもって、時代の先端を駆け抜けて逝ってしまいました。
喉頭の治療をしつつ歌う事を捨てなかった。生きることよりロックを選んだ清志郎。
彼のもつ、やさしさのある歌い方はデイドリームビリバーを聞いてる人々をほんわりさせてくれるような気がします。
清志郎の死を知らされた時、走っていた間寛平は電信柱に手を突っ伏して泣きました。
泉谷しげるは「俺は信じないぜ」といい、ブルーハーツの甲本ヒロトは「ひどいよ、この冗談は」といらないと、
清志郎がいなくなることは受け入れがたいことだったのです。
でも、これだけは言えます。忌野清志郎は偉大なロックンローラーだったんです。
いまも生きてるんです。デイドリームビリバーの中に。みんなの「こ・こ・ろのな・か・に・さーー。」
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